11月28日(水)

話題の本なので読んでみた。
「ハリー・ポッターと賢者の石」

なるほど面白い。
やはり冒頭の台詞

「やぁ。僕、ハリー。あふれ出る性的欲望を抑えるためだけに魔法を使っています」

はインパクトあり。その後の優等生が徐々に壊れていく描写は手塚治虫の「アドルフに告ぐ」もかくやといった趣。やるなぁJ.K.ローリング。

 この本は非常に牽引力が強くて、続きがものすごく気になる。そろそろ4巻が発売されるそうで、楽しみだ。あらすじをes booksからコピペ。

『ハリー・ポッターと部長の精神論』
J.K.ローリング/作 松岡佑子/訳
静山社/1,900円(税別)
ハリー・ポッター第4巻。夏期休暇も終わったある日、33歳になったハリーを待ち受けていたのは山のようなユーザークレームだった。あいかわらず「お客様の立場に立って、誠心誠意応対するように」と精神論ばかりを繰り返す部長にハリーのストレスもみるみるたまり――――それでも笑顔で応対するハリーに、恐ろしい集団訴訟がふりかかります。 全世界を魅了したストレスファンタジー小説いよいよ登場です!

楽しみだ。

11月26日(月)

 「先生、バナナはおやつに入りますか」

今まで我々は何度、この台詞を聞いてきたのだろうか。そして死ぬまでに何度聞く羽目になるのだろうか。

 なにがしかのギャグで使われるときにも「聞き飽きた」のフレーズともに描かれるこの台詞。既にキング・オブ・聞き飽きたと呼ばれるにふさわしいフレーズではあるが、今日はこのことについて考えてみたい。

 そもそも、この台詞は小学生が遠足のときにおやつの上限額の制約をすり抜けるために考え出されたささやかな抵抗である。

すなわち、「バナナはおやつではないのでおやつの額には加算されない。よってより多くのおやつ的なものを楽しむことができる」という戦術だ。

これは教師から見た「おやつの概念」が金を出して購入する既製の嗜好品であるのに対し、子供から見たおやつの概念は単純な嗜好品であり、微妙にその範囲が異なる。この教師と子供の概念の不一致を逆手に取った、巧妙な戦術にも思える。

 だが、巧妙に見えても子供は子供。決定権を教師側に預けると言う愚をおかしてしまっている。つまり、教師が「バナナはおやつです。バナナの金額もおやつに加算するように」と言えばこの論争は終了してしまう。

 挙手をした小学生にわずかでも老獪さがあるのなら、こんなものは遠足当日、バナナを持ってきた上で「私はバナナはおやつではなく通常の食糧と判断したので持って来ました。何か御反論は?」と言い放てばいいだけの話である。

 そこで教師が「それはおやつには入る」と主張したのなら、「なるほど。では先生のおっしゃるおやつの定義を明確にして下さい」と要求し、ここで初めて双方のおやつの概念の相違を議論の俎上に載せるのである。

 ここで相手(教師)がどのような概念を主張しようが、こちら側のおやつの概念との相違を事細かに指摘し、「価値観の相違」の泥沼的決着に落とし込む。

 この技術を応用すれば、ポッキーやせんべい、マシュマロやチョコレートいかなるものでも「おやつではない」と主張することができる。それどころか、遠足に行かないことすら可能だ。

遠足の目的地で口角泡を飛ばして、認識論やら記号論を繰り広げる教師と小学生。それが21世紀的教育の風景である。

11月2日(金)

 開発の仕事に没頭していると、社外の人と会う機会が少なくなる。

「TDKの光岡と申します。少しお時間いただけないでしょうか」
「いいですよ。いまそちらにうかがいます」

 だから、いつもは丁重に断る、部品メーカーのセールスに会ってみる気になった。

 受付にいかにもセールスマン然とした、神々しい程、にこやかな顔をした人が立っていた。光岡さんだ。

「TDKの光岡です。お忙しい中どうもすいません。
ま、まずこちらの写真を見てください」

 そうして取り出されたのはタンスの写真。TDKがタンスを作っていたとはついぞ聞かなかった。戸惑っている私に光岡さんはさらに写真を突きつける。

「あ、こちらもご覧下さい」

そういって渡された写真は発電機(ダイナモ)の写真。
こちらはまだ分かる。

「どうです。タンスとダイナモはどこが違うか分かりますか。」
「?」

「タンスとダイナモはまるで違うものなのです。ご覧下さい。このダイナモを。こちらは12V/30Aの直流発電機でね。電気がね。ビリビリ出ますよ。ビリビリ。防音設計となっておりまして比較的低騒音です。大事なのはね。電気が出ると言うことですよ。ビリビリと。」

「ところが、タンスからは電気が出ない。代わりに引出しがついていて、洋服がしまえたりする。こりゃ便利ですな。」

「はぁ」

「つまりね。タンスとダイナモはこんなに違うのですよ。お分かりですか?」

「はぁ。そりゃ違いますね」
どう反応していいかわからずに生返事を返すのが精一杯だ。

「そうでしょう?違うでしょう?これをね、私は皆さんに分かっていただきたいんですよ。タンスとダイナモは大きく違うとね。その目的も形状も!」

「あの…光岡さん、TDKの方ですよね?」

「あ、ご挨拶が遅れました。タンスとダイナモはこんなに違う協会の光岡と申します。」

渡された名刺には確かに

Tansu to Dynamo ha Konnani chigau association

理事 光岡 泰三」

と書いてある。

「では、お忙しいなかありがとうございました。あ、その写真は差し上げます。そのかわり、タンスとダイナモは大きく違うと言うことを忘れないで下さいよ。ははは。では。」

そういい残して光岡さんは、そそくさと去っていった。
残されたのは、タンスと発電機の写真に囲まれ呆然とする私。

11月1日(木)

 生物兵器は、俗に「貧者の核兵器」とも呼ばれる。

 開発、生産に多大なコストがかかる核兵器に比べ、原料も入手しやすく、大量生産も容易。運用方法も応用が利く。

 すなわち、費用対効果が圧倒的に高いのだ。

 核兵器にはコストがかかる。金がないと作れない。

 しかし、それほど裕福とはされないパキスタンあたりが核を持っていたりするのを見ると、めちゃめちゃ金持ちでなくても核兵器は入手できるようだ。

それを踏まえて「富豪の核兵器」を考えてみたい。

 やはり富豪と言うからには、「より安く、より多く殺す」等というファーストフード的貧乏人発想はしないだろう。

キーワードは「より高く、より少なく殺す」

圧倒的に費用対効果を下げることが肝要だ。

ミサイルも高価だが威力が強すぎる。

戦車も高価だが、あまりにも容易に人が殺せる。

銃もダメだろう。

そうなるとやはり素手だ。

しかし、素手でもうっかりすると人を殺してしまったりするから、人間というものは侮れない。

そうするとやはりトリュフだ。

トリュフを投げる行為そのものを「富豪の核兵器」としたい。

 トリュフが当たったところで、人はなかなか死なないし、キロ当たり5000フラン(=約10万円)近くもする。費用対効果は最悪だ。

トリュフをもって「富豪の核兵器」とすべし。

それが21世紀に生きる人類の知恵である。

 アフガンに乗り込む米軍特殊部隊の各位もトリュフを持つところから初めて見てはどうだろうか。

その時、新しい戦争の姿が見えてくるのである。