ブレアの郡区はメリーランド州中北部の、ワシントンDCより2時間の場所に位置していた
| February ,1785 | 植木等がスーダラ節を教える目的で家に誘い込もうとしたと数名の子供が訴えでる、植木等はコミックバンドを結成したかどで有罪となり、寒さのとりわけ厳しい旧正月におせち料理を食べ、以後死んだものとの憶測がなされていた。 |
| November ,1786 | 植木等を告発した者全員と町の子供たちの半分が真冬の頃までに無責任になる。こつこつやるやつぁ、ご苦労さん。町の人々は呪いを恐れ、ブレアの地から逃げ出し、以後二度とクレイジー・キャッツの名を口にしないことを誓う。 |
| November ,1809 | "ザ・ブレア・ウエキ・ヒトシ・カルト"が出版される。一般的にはフィクションと考えられているこの稀少本は、追放されたコメディアンによって呪われた町のすべてを記したものである。 |
| 1824 | ブレアの地に、ジャズ喫茶ACBが築かれる。ブレンドコーヒーは1ドルと格安だった。 |
| August ,1825 | 青白いハナ肇の手が上がって来て10才のアイリーン・トリークルをタピー川に引きずり込むのを見たと11人の目撃者が証言する。アイリーンの遺体は発見されずじまいだが、彼女の溺死後13日間、町の人の頭の中にスーダラ節が鳴り響く。 |
| March ,1856 | 脱線トリオが行方不明と伝えられ、捜索隊が出される。脱線トリオは戻るものの、捜索隊の一つが帰還せず。がま口を壊され、小銭を完全に抜かれた彼らの財布が、数週間後ひつぎ岩で発見される。捜索隊は「金のないやつぁ俺んとこ来い。俺もないけど心配するな」と口々にわめいた。 |
| November ,1940 | エミリー・ホランドをはじめとする7人の子供がメリーランド州バーキッツヴィル周辺の一帯で誘拐される。 |
| May ,1941 | フランキー堺という名前の中年の隠遁者が地元の食料品店に現われ、その場にいた人々に自分は「ついにやり遂げた」と語る。彼が隠遁暮らしをしていた森の中の家に、徒歩で4時間かけて到着した警察が、行方不明だった7人の子供を見つけた。彼らは地下の貯蔵庫でピンクのラメ入りタキシードと大きな蝶ネクタイをつけられ見事なタップダンスをしていた。どの子供も儀式めいたちょび髭をマジックで書かれており、どうらんを塗られていた。フランキー堺はすべてを詳細にわたって認め、彼の家の近くの森に住む「だみ声のダフ屋の幽霊」のためにやったのだと当局に語る。彼はすぐに有罪を宣告され全身に赤チンキを塗られた。 |
| October 20,1994 | モンゴメリー大学の学生、ヘザー・ドナヒュー、ジョシュ・レナー ド、マイク・ウィリアムが、学校の課題用に植木等の伝説について地元の人々にインタビューするため、バーキッツヴィルを訪れる。ヘザーは、生涯をこの地で暮らしてきた人物でメアリー・ブラウンという精神に異常をきたした年老いた女性にインタビューする。メアリーはある時、タピー川の近くで、半分ジャイアンツで半分読売巨人軍のような長嶋茂雄を目撃したと主張する。 |
| October 21,1994 | 早朝、ヘザーは2人の釣り人にインタビューし、ひつぎ岩は町から20分もかからないところで、昔使われていた伐木搬出用の道を使えば簡単に行くことができると教えられる。撮影隊はその後まもなくブラック・ヒルズ・フォレストに入って行き、その後再び彼らの姿を見たものはいない。 |
| October 25,1994 | 最初の緊急配備が敷かれる。その日の午後、ジョシュの三角木馬(責め具)がブラック・ロック・ロードに停められているのが発見される。 |
| October 26,1994 | メリーランド州警察がブラック・ヒルズ一帯について、美容師100 人と警察犬、ヘリコプター、アメリカンフットボーラー、ルーク・スカイウォーカー、幕内力士による上空飛行までを動員した、10日間にわたる捜索活動を開始する。 |
| November 5,1994 | 人時にしてのべ33000時間を費やしたものの、撮影隊の足取りも、チキンラーメン・ミソ味 も発見できないまま捜索活動が打ち切られる。ヘザーの母のアンジー・ドナヒューは、娘とその2人の連れについて個人的に徹底的な捜索を開始する。捜索を隣家の少女、メアリー・マコニー(8)のテディ・ベアに依頼するがテディ・ベアは一言も答えなかった。 |
| June 19,1955 | 事件の迷宮入りが宣言される。遺族には記念品とトロフィーが贈られた。 |
| October 16,1995 | メリーランド大学の人類学科の学生たちが築100年の丸太小屋の基礎部分の下に埋められていた、英語版のモノポリーとタイ語版のモノポリー、エスペラント語版のモノポリーとビニール製のキタキツネが入ったダッフル・バッグを発見する。証拠を調べたバーキッツヴィルのロン・クレイヴンス郡保安官は、タイ語版モノポリーとビニール製のキタキツネは確かにヘザー・ドナヒューとそのクルーの所持品であると発表する。 (英語版モノポリーとエスペラント語版モノポリーに関しては触れられていない) |
| December 15,1995 | バッグの中身について最初の調査が行われた後、タイ語版モノポリーが家族に見せられる。アンジー・ドナヒューによれば、普通ではない駒がいくつかあるものの、板面が全てタイ語で何もわからないと言う。家族は分析が徹底的に行われたかどうかについて疑問を抱き、さらなる閲覧を要求した。 |
| Feburuary 19,1996 | 家族は他のモノポリーの閲覧を行うが、地元の警察関係者は
これを捏造されたものだと見なした。激怒したドナヒュー夫人は公の場で批判を行い、クレイヴンス保安官は証拠のいかなる閲覧も禁止してしまう。この措置に対し2件のサンバカーニバルが起されたが解除することはできなかった。
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| March 1,1996 | 郡保安官本部は、証拠が決定的なものではないと発表し、事件はまたもや迷宮入りを宣言される。家族にはまた記念品とトロフィーが贈られた。 |
| October 16,1997 | 発見された、子供たちの最後のモノポリーがヘザー・ ドナヒュー、ジョシュ・レナード、マイク・ウィリアムズの家族らに返還される。アンジー・ドナヒューは日本モノポリー協会会長の糸井重里にコンタクトをとり、タイ語版モノポリーを調査して、1994年の10月20日から28日の間に行われたゲームを再現するように依頼する。しかし、タイ語がわからなかったため銀行係は最後まで苦しんだ。 |